みとキリスト教会

今週のメッセージ
(08年12月21日)
「ビッグ:ニュース」

 (マタイ1:18〜25)

  

     

 MERRY CHRISTMAS!! 「クリスマスおめでとう」という看板が、あちこちでみられます。喜ばしいことか、悲しむべきかは歳末商戦と一緒にされても イェスの御降誕について、全世界が注目していることは、確かでしょう。イェスの誕生について私たちの手に在る福音書は、どのように書かれているのでしょう。

 第一に、マタイはイェスの誕生について預言者の言葉が地上に、まさしくそのとおりの事が出来事として成就したのだと記しています。

〈イザヤ7:14〉「処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルとよばれる。神が私たちと共におられる。」神は私たち人間にとって、遠い存在のように思われていたのです。しかし今や。イェスの誕生によって、神が私たちと「ともに共にいてくださる」と言う約束を現実のものとしてくださったのです。 

 第二に、マルコはイェスの誕生について不思議に沈黙しています。これは何を意味しているのでしょうか?マタイ、ルカ、ヨハネたちの記述が、空しい想像の産物だったからでしょうか。そうではありません。マタイ、ルカ、ヨハネは正確に記していたのです。これで十分完成しているとマタイは判断したのです。

 第三に、ルカは貧しい人々の中にこられた、希望の光であったことを明確にしました。三回もルカは飼い葉おけのみどりごについて記しています。ルカは医者でした。どんなに病気が人々の魂をゆさぶり、絶望におとしいれるものであるかをよく知っていたのです。

 第四に、ヨハネはイェスの誕生について、闇の中に輝く光としてこの世においでになったこと、また、霊なる御神が肉体をとって 私たちの中に住まわれたと訴えています。この大きな喜びを伝えるために、マタイ、ルカ、ヨハネの三人の記者たちは真剣に、ありのままを全力をあげて、しるしています。これが、本当のくりすますです。

「クリスマス おめでとう」とたがいに喜び、神様のすばらしい贈り物に感謝いたしましょう。MERRY  CHRISTMAS!!


 (YOSHIYUKI)
今週のメッセージ
(08年12月14日)
「神のプレゼント」

  
(ヨハネ3:16)

  

 聖書の中で この聖句ほど、多くの人々を救いに導くために用いられたみことばは他に見当たりません。神からのプレゼント=神の愛

 第一に、この大きな神の愛の対象=それはこの世です。地球全体、そこに住む凡ての物、凡ての人、一人一人が其の対象でそれにもれる人は、だれもありません。すべてのひと、あなたを、神は限りなく愛しておられもす。

 第二に、この大きな愛の深さは 測りしれず 独りの御子をお与えになったほどです、それは御計画の下にすすめられたのです。

 苦しみと嘆きのなかに迷っている私たちのところまで、ひとり子をお遣わしになって、その苦しみと嘆きと迷いを、御自身の生身の身体で受け止めてくださったのです。これが、十字架の愛です。イェス キリストは、全身全霊をもって、最後の血の一滴まで、惜しむことなく十字架上で流し、私たちに愛を注いで下さったのです。

 第三に、この大きな愛は御子イェスは神のひとり子であることです。神の救いは、このお方によって、与えられたのです。神の愛があらわされ、他の方法 他の者によっては救いは成就しません。又神の愛は、このお方にのみ注がれているからです。神の愛を受けようとする者は、神の御子イェスが十字架にかかって私のために死んで下さったことを信じて、そのことを受け入れなければなりません。 

 第四に、この大きな神の力=キリストの力は、無制限であり、無限大です。キリストの力の前に 誰一人立ちはだかってその力を征服することは不可能です。その力には人を滅びから完全に救い出すことができるのです。さらに、永遠の生命に結びつける強さがあり、力があります。イェス キリストを信じるものは 滅びることがなく永遠の生命をもつ。とのみ言葉は真実です。神の愛 その素晴らしいプレゼントを、今朝感謝のうちにうけいれましょう。これこそが、まことのクリスマスがあなたのところにきたのです。

      


 (YOSHIYUKI)

  

   

「祈りについて」   マタイ6:5〜15

前回、すべての道に神様を認めることの大切さ、そして、それが祈りであることを学びました。では、どう祈るべきなのか、母マリヤの祈りと主の祈りを通して、ご一緒に学びましょう。

第一に、クリスマスですので、母マリヤの祈りを見てみましょう。

ルカ1:36をご覧下さい。

天使がやってきて、マリヤは、神の子を宿す、と告げられます。

これほど、びっくりするお告げは世の中にないでしょう。たいがいのことは、人知のしるところであって、人から告げられることは、おおよそ想定内のことです。

しかし、神様のなさることは、まさに人知のおよばないこと、人には考えられないことを告げられるのです。

彼女は、当然、大変戸惑ったことでしょうが、彼女の返事は、みずからの信仰告白でした。

彼女の返事は、自分がはしため、であることを告げています。

はしため、とはもう使わない言葉ですが、端っこの女と書き、めしつかいの女という意味です。つまり、神様に仕える身のなかでも、一番身分が低く、さらに一番はしっこにいる、という意味です。

この言葉には、自分の罪を知っており、自分がそう偉くはないことを承知していることを含んでいます。

しかし、神様に仕えるものであることも伝えることばです。

そして、彼女は、おことばどおりなるように、と祈ります。

それは、自分の思いではなく、神様のみこころがなるように、と祈ることです。

つまり、神様を信じるこころを述べているのです。

 

わたしたちも、ぜひ、彼女の祈りを覚え、これに見習いましょう。

 

 

さて、主の祈りですが、これは、すべえの人のために与えられた祈りです。

 

神様の賛美に始まり、神のみこころがなるように祈り、生活のために祈り、自分の罪のために祈り、そして、これからの幸せのために祈ります。

ここには、この5つの要素が含まれています。

1つは、神様を賛美すること。

2つ目に、神様のみこころの成就

3つ目が、ご自分の生活のために

4つ目が、自分の罪の赦し

最後に、今後の幸せを願います。

ぜひ、この5つを覚えてください。

たとえば、五本の指に、あてはめて見てはどうでしょう。

そして、わたしたちが祈る時には、この5つの要素を順番に祈るように致しましょう。

 

まず、神様を賛美すると、感謝が生まれます。お祈りをただ、自分の願いから始めるのではなく、まず、神様を賛美しましょう。どういう言葉を使ってもかまいません。あなたが思う、神様がどういう方かをまず賛美してください。そうして、神様の偉大さ、神様の愛を思い起こすことは、わたしたちが祈る上で、不可欠なことです。時々、こうして、神様の偉大さを褒め称えると、わたしたちは、そんなに神様を思い起こして生きているわけでないことがよく分かります。その偉大さ、その愛を再確認するときに、私たちのこころには、感謝がでてきます。

そうすると、感謝の気持ちは、神様のみこころがなることを望みます。神様はすごいな、神様ありがとう、と思う気持ちがあると、初めて、神様の思うようにされるのがいいな、と思えるのです。教会で、聖書で、そう祈りなさい、と言われて祈るのでは、意味がありません。本当に、自分の望もあるけど、神様の思うとおりに、と言えるようになりたいですね。

そうすれば、何が本当の望みであり、本当の幸せを祈ることができます。

そのために、順番があります。いきなり、お祈りで、自分の望をお願いするのではなく、まず、神様をほめたたえる、をやってみてください。

 

主の祈りは、それを呪文のように祈るものではありません。しかし、呪文のようにそれを繰り返し述べていると、わたしたちが何を祈ったらよいのかを覚えることができます。

主の祈りを覚え、そして、活用し、わたしたちの祈りにしましょう。

 

第三に、祈る時間を持ちましょう。

主の祈りの前の箇所に、祈る場所について、その姿勢について、イエス様は指導されています。

 

もちろん、いつでも、どこでも、どんな時でも、わたしたちは祈るべきです。

しかし、それだけではなく、生活の習慣として、祈る時間をぜひ取ってください。

 

おすすめは朝です。朝にまだ誰とも話をする前、静かなうちに神様と向き合うことをお勧めします。人に邪魔されず、自分と神様だけの時間を作ってください。

できれば、部屋に誰も入れず、自分だけ、神さまと向き合って祈る時間と場所を造ってください。

 

先日NHKのその時歴史は動いた、で、キリシタン大名大友宗麟をやっていました。北九州の大名であった彼は、島津軍との戦いで、篭城し、もう敗れる寸前まで追い詰められた時、もう祈るしかなかった、と言う。その時、援軍がやってきて、島津軍は引き返さざるを得ない状況に一変したのです。

 

この大友宗麟、キリシタン大名として、伝道をし、使節団も出したりし、有名ですが、一方では、横暴な性格であまり家臣にもいさめられるほどの人物だったようです。

NHKのシナリオはあまりにも脚色しすぎている感じもしますが、彼の信仰は確かなものだったようです。

自分の罪を知っていて、信仰を持っていたなら、本当に神様が祈りを聞かれたのかもしれません。彼は、キリシタン大名でしたが、戦死することもなく、寿命をまっとうしています。

 

祈る人には、その祈りが成就する力が与えられます。

それは、神様がきかれるからです。

ただ、強く願うこととは違います。

そこには感謝があり、賛美があり、願いがあります。

願いは自分だけの物ですが、祈りは、神様とのコミュニケーションなのです。

自分の願いを成就したいと願うだけなら、マリヤの祈りは生まれなかったでしょう。

わたしたちも、神様のみこころがなるように祈りましょう。

  


 (YOSHIYUKI)
今週のメッセージ
(08年12月7日)
「祈りについて」

  
(マタイ6:5〜15)

        

前回、すべての道に神様を認めることの大切さ、そして、それが祈りであることを学びました。では、どう祈るべきなのか、母マリヤの祈りと主の祈りを通して、ご一緒に学びましょう。

第一に、母マリヤの祈りは、自らの罪を知る者の信仰の告白です。(ルカ1:38)彼女の祈りは、まさに主の祈りの要素だけ、かつ、シンプルな祈りです。自分を「はしため」ですとすることで、神をほめ、そして、自分には罪があることを認めています。その上で、みこころを成就することを願っています。彼女は、天使のみつげに大変とまどいましたが「主のみこころがなりますように」と信じ祈ったのです。

第二に、主の祈りは、すべえの人のための祈りです。神様の賛美に始まり、神のみこころがなるように祈り、生活のために祈り、自分の罪のために祈り、そして、これからの幸せのために祈ります。わたしたちが祈る時には、この5つの要素を祈るように致しましょう。神様を賛美すると、感謝が生まれます。感謝の気持ちは、神様のみこころがなることを望みます。そうすれば、何が本当の望みであり、本当の幸せを祈ることができます。

第三に、祈る時間を持ちましょう。いつでも、どこでも、どんな時でも、わたしたちは祈るべきです。しかし、それだけではなく、生活の習慣として、祈る時間をぜひ取ってください。おすすめは朝です。朝にまだ誰とも話をする前、静かなうちに神様と向き合うことをお勧めします。人に邪魔されず、自分と神様だけの時間を作ってください。

祈る人には、その祈りが成就する力が与えられます。信仰を持っている上に、祈る行為が加われば、神様はその願いを聞き届けられます。ただ自分の願いを強く願うのとは、祈りは違います。そこには感謝があり、賛美があり、願いがあります。願いは自分だけの物ですが、祈りは、神様とのコミュニケーションなのです。自分の願いを成就したいと願うだけなら、マリヤの祈りは生まれなかったでしょう。わたしたちも、神様のみこころがなるように祈りましょう。


 (YOSHIYUKI)
今週のメッセージ
(08年11月30日)
罪とは 1

  
ヘブル10:26〜31

  

 ヘブルの記者は、他の聖書と比べてみて、非常に激しく きびしい言葉で罪について、指摘しています。彼は自分の体験から罪の恐るべき実態について良く知っていたものは、ほかになかったとおもわれます。其の体験からでたことばは、真実で誰でも真剣に受けとめずにはおられない力があります。

 第一に、罪とは、故意に犯し続けることについて、恐ろしいさばきを受けるということです。申命記の厳しい警告について〜罪への裁きは当然のことである と指摘しています。 罪は確かに、十字架によってゆるされています。しかし、自分が赦されている者であるとの自覚をもつことなく 悪に走ることは、神様に背くことになります。一度 赦しを受け恵みにあずかった者がその道からはずれていくことです。それを知りつつ悪を行うならば、その人には、罪は二倍の深刻さをもって、かえってくるということです。

 第二に、罪とは、キリストの顔に泥をぬり、キリストを踏みつけることになります。罪は、律法に背くだけでなく、真実な愛を致命的にきずつけるのです。イェスさまは、お出でくださって愛を全身でしめしてくださいました。罪は、律法を破るだけではなく、キリストの愛さえも、拒絶することです。そして、キリストの愛に逆らう罪こそが、この世の中で一番悪い、最悪のつみなのです。 

 第三に、罪とは、神聖なものとされたという、契約の血を、汚れた物とみなすことです。罪は、神聖なものを認めないということです。罪は、十字架上で支払われた犠牲の赦しを無視するのです。自分が受けた神聖さを拒絶する、という意志をもつということです。その結果、其の拒絶反応は、恵みの聖霊を侮辱することになります。聖霊の親しい警告を無視することは、聖霊を汚して、紙の心を悲しませることです。私たちは、罪から自由にされた者です。だからこそ罪についての、断固たる姿勢を崩すことなく、罪に打ち勝ってキリストの正しい道を踏みしめて、前進いたしましょう。アーメン。


 (YOSHIYUKI)
今週のメッセージ
(08年11月16日)
信者の4つの実践

  
ヘブル10:19〜25

        

 これまで学んだ神学的な真理を実践すること、実際生活に適用するようにとすすめています。神学的に要約をし、其の要約を適用するようにと語っています。イエスは、ご自分の肉体と言う垂れ幕を通し、信じる者に新しいいける道を設けてくださったのです。そしてイェスは今も天におられ、治めておられる大祭司です。この方が私たちの罪、汚れを完全にきよめることが、お出来になります。 

 第一に、信仰の実践がすすめられています。私たちは「心に血の注ぎをうけ、邪悪な良心を清められ、身体は清い水で洗われた」のです。まず私たちが全き信仰をもって、真心から神に近ずこうではありませんか。「神に近ずきなさい。そうすれば神は近ずいて下さいます」〈ヤコブ4:8〉まぐ信仰的に行動をおこすべきです。

 第二に、信仰の告白のすすめです。この実践は、絶えず信仰者のしるしとなるべきものです。なぜなら、クリスチャンの希望は失望に終わることはないからです。なぜなら約束されたイェスは真実な方であるからです。ですから、この希望を公に言い表し揺るがないようにしっかり保ちましよう。

 第三に、クリスチァンの実践は愛のおこないです。信者は一人孤独の道を歩むべきではありません。互いに愛と善行に励むよう心がけましょう。お互いに愛された者として、愛の実践に励むべきです。一人でするのではなく、たがいに、それを促すように注意しあいましょう。 

 第四に、信者は、集会に出席することの実践です。初代教会の時も集会を中止しようとする信者がいたようです。キリストが再臨され、世に来られる事を信じる私たちは、互いに励まし合って、定期的に日曜礼拝、その他の集会に出席するよう実践すべきです。主の日は確かに、近いのです。私たちは、イェスの名にふさわしい生活をおくり、実行することを、やめてはなりません。いつもキリストの姿を世に証しして、世の光りとして、1つ1つを忠実にはたしましょう。 


 (YOSHIYUKI)
今週のメッセージ
(08年11月9日)
3つのすすめ

  
ヘブル10:19〜25

 

ヘブルの記者は、今まで切々と訴えてきた事柄を、実践に移すようにすすめています。論ずることは、大切で、避けることはできませんが、それをそのまま、聞き流しては元も子もありません。知的満足を求めるだけで終わってはならないことを、10〜13章にわたって切々と、訴えています。特にヘブルの記者は、いま一度イェスについて目を注ぐように、3っのことをすすめています。  

 第一に、イェスは、神への唯一の道です。ヨハネへの手紙の初めに「初めに言があった。言は神であった。」と書かれていることば〈言〉は、他の日本語訳では、「道」と書かれ、「ことば」と、ルビがつけられています。このことから理解されるように、[]はイェスを指し示しています。イェスが十字架に架けられなくなられ、同時に至聖所の幕が引き裂かれた時に、神への道が開かれたのです。その時、神の御前に新しい生きた道を私たちのためにイェスは、開いて下さったのです。  

 第二に、イェスは今は天におられ、治めておられる大祭司です。これは、ヘブルの記者が、何度も何度も語ってきたことです。神と人との間を橋渡しをする大祭司はイェス:キリストです。他にはおられません。母マリヤ、預言者、信仰の偉人たちも其の役割を果たすことはできません。イェスだけが、神の家を支配する偉大な祭司だからです。私たちを神に紹介することがお出来になるのです。

 第三に、イェスは、私たちの罪、汚れを完全にきよめることができるのです。けがれ、罪をもって、神に近ずくことはできません。自分の努力や、悟りをもっても、神に近づくことは出来ません。いくらもがいても、そこから脱出することはできません。只イェスのみが、外面だけでなく、人間の内外の一切について、聖霊とその臨在によって、人間の思いと願いの凡てをきよめ、真実なものとしてくださるのです。この恵みを感謝いたしましょう。! ハレルャ!!  


 (YOSHIYUKI)
今週のメッセージ
(08年11月2日)
信仰の勝利

  
へブル11:12〜13

 
 

 ヘブル書は滞在していたローマからパウロがユダヤ人キリスト者にあてて書かれたものであろう。
彼らの群れがやがて来る恐るべき時を切り抜けられるように励ましている。当時ローマの属州であった
エルサレムのユダヤ人はユダヤ教に基ついた民族の独立を求めていた。ユダヤ人は反乱した。ユダヤ戦争
AD6670)ローマ軍進攻エルサレム神殿炎上エルサレムにあるキリスト教会もそれに、まきこまれた。       
信仰の英雄たち  

アブラハムの召命  「あなたを祝福の基とする。」

          「あなたを通じて凡ての民族に祝福を及ぼす」            

アブラハムの信仰  「神の都がどこにあるか、知らずにたびだった。

(創12:1〜7) 

「そのひとりごを神がよみがえらせて下さることを確信して、捧げることを厭わなかった。」  

モーセの信仰                   〈創22〉 

イスラエルと共に苦しむことを選び、エジプトをでた。紅海を渡り常に見えない方をみていた。
〈出エ2:2〉 

第一に、信仰とは「目に見えない物を確信させるものです.。」(11:1)神の霊が人の心に入るとき、目を覆っていた偏見は取り除かれ、
神の霊が見えるようになる。神の霊が人の中に入るとき、人の弱さは神の力によって覆われ、不可能を可能にし、困難に直面する
勇気を与え、耐えがたきものを忍ばせる。         
第二に、試練を与えるものです。〈ヘブル12:5〉ダマスコで
回心したパウロは、其の後
35年の間迫害された。しかし、彼にとってはそのことが、喜びであった。アブラハムは「イサクを捧げよ」
と、最大の試練にあった。モーセは、
200万人を連れてエジプトを出た。荒野で40年間この民の不合理な不平に耐えた。
〈出エ33:14〉安息    

(YOSHIYUKI)
今週のメッセージ
(08年10月26日)
イエスの権威

  
マルコ11:20〜26

  

イエス様が「おまえの実を食べることのないように」と告げられた(14節)いちじくの木は、翌朝には、枯れてしまいました。それを見つけたペテロに向かって、神さまを信じて祈ることの大切さを教えられています。わたしたちも一緒に学べましょう。

第一に、神様を信じて、疑わず、祈ることです。山に向かって海に入れ、とは何とも馬鹿げたたとえです。ですが、真剣に祈るというのは、他人には、そのように馬鹿げたことのように思えるものなのです。そして、真剣に祈っているとき、それは、願いから確信へと導かれます。すなわち、本当に神様を信じているなら、祈りは、「すでに受けた」と信じることができます。ただ願うことと、信仰による祈りは、そこに違いがあります。

第二に、祈りの時にこそ、自分の中にある罪に気付きます。願い事というのは、自分を見て思うものですが、祈りは、その内容よりも、神様をどれだけ信じているか、を問われています。祈りは神さまを見てするものです。どうしてもその時には、自分の中にある罪が見えてくるようになります。それは人をうらやむ心です。それが神様を信じる、つまり祈る障害になることをイエス様は知っておられ、わたしたちに赦すよう勧められているのです。

第三に、その祈りは、イエス様の権威によって、実現されます。イエス様の行われてきたことは、すべて、神様の一人子としての権威に裏づけされたものでした。ただ信じて祈るだけではなく、その内容は、神様によって権威を与えられていたのです。わたしたちがイエス様の名によって祈るとき、それは、イエス様の権威によって実現されます。

イエス様は、神様のひとり子として、この世に送られ、わたしたちの罪のために十字架にかけられました。その十字架の死によって、わたしたちの罪は赦され、神様に受け入れられているのです。そしてイエス様の復活によって、わたしたちに生きる力が与えられています。わたしたちがイエス様の名によって祈るとき、このイエス様の権威に従って、そのとおりになる力が与えられているのです

 (YOSHIYUKI)


「イエスの権威」

最初に、

景気が悪くなりそうです。

しばらく、生活が苦しくなる可能性が高いと思われます。あまり贅沢せず、十分な備えをされることをお勧めします。

さて、生活が苦しくなると、「神頼み」をしたくなるものです。

キリストの神様に「こんなお願いしたら、、、」とためらっていませんか?

もし、願い事の内容に自信がないのでしたら、今日の聖書の箇所を思い出してください。

イエス様は、いちじくの木をからせてしまったのですから。

イエス様が「おまえの実を食べることのないように」と告げられた(14節)いちじくの木は、翌朝には、枯れてしまいました。

それを見つけたペテロに向かって、神さまを信じて祈ることの大切さを教えられています。わたしたちも一緒に学べましょう。

第一に、神様を信じて、疑わず、祈ることです。

山に向かって海に入れ、とは何とも馬鹿げたたとえです。ですが、真剣に祈るというのは、他人には、そのように馬鹿げたことのように思えるものなのです。

そして、真剣に祈っているとき、それは、願いから確信へと導かれます。すなわち、本当に神様を信じているなら、祈りは、「すでに受けた」と信じることができます。

ただ願うことと、信仰による祈りは、そこに違いがあります。それは自分で気付くことができますので、ぜひ祈るときによくよく注意してみてください。

第二に、祈りの時にこそ、自分の中にある罪に気付きます。

願い事というのは、自分を見て思うものですが、祈りは、その内容よりも、神様をどれだけ信じているか、を問われています。

ですから、いちじくの木を枯らす、山を動かす、と言った一見馬鹿げた内容がでてくるのです。祈る内容ではなく、信じて祈るかが、問われるのです。

信じる、というのは、神さまを見てするものです。自分に何が必要か、と願い事を考えるのではなく、実は、神様が望まれているのは何か、と考えているのです。

そうすると、どうしてもその時には、自分の中にある罪が見えてくるようになります。それは人をうらやむ心です。願い事の大半は、人を恨んだり、人を見ている時に起こります。

それでは、神様を信じることができません。つまり、人をうらやむ気持ちが、神様を信じる、つまり祈る障害となってしまうのです。

イエス様はそのことを知っておられ、わたしたちに赦すよう勧められているのです。

そうすれば、わたしたちも赦され、素直に神様に祈ることができるようになるのです。

第三に、その祈りは、イエス様の権威によって、実現されます。

イエス様の行われてきたことは、すべて、神様の一人子としての権威に裏づけされたものでした。ただ信じて祈るだけではなく、その内容は、神様によって権威を与えられていたのです。

それと同様に、わたしたちがイエス様の名によって祈るとき、それは、イエス様の権威によって実現されます。

イエス様は、十二の弟子たちを、病気を癒す権威をお与えになって、各地に送り出しました。

それは、イエス様の名による権威、でした。

また、イエス様の福音を知らない者が、イエス様の名によって、癒しをしていた記事も聖書にあります。

イエスの名を信じて疑わない者には、その権威が備わるのです。

イエス様の権威は、神様のひとり子として、この世に送られたことにあります。彼はただの偉人ではありま せん。新しい思想を述べた哲学者

でもありません。真実や幸せに至る道を時に来たのでもなく、新しい宗教を開いた一人の教祖ではありません。

イエスさまは、わたしたちの罪のために十字架にかかるために、こられたのです。

その十字架の死によって、わたしたちの罪は赦され、神様に受け入れられているのです。

そしてイエス様は、三日の日に、復活され、死に打ち勝たれました。

それによって、わたしたちに生きる力が与えられています。

わたしたちがイエス様の名によって祈るとき、このイエス様の権威に従って、そのとおりになる力が与えられていることを覚えましょう。

今週のメッセージ
(08年10月19日)
イェスによって

  
ヘブル10:19〜25

 

ヘブルの記者は、これまで学んできた、神学的真理を実際生活に適用するように励ましています。この10章〜13章までは、おもに信者のあるべき姿を浮き彫りにすることに集中しています。それは活けるキリストによって、ふかい思索から、麗しい信仰生活を生み出して結実をむすばせるためです。教理から実践へと移行し、実際生活に当てはめようとする試みです。

第一に、イェスの十字架の血によって、聖所に私たちは入れられると確信しています。イェスご自身神のみもとにおられ、神の御許へ導かれる生きた道です。神と人との間にあつた幕が二つに引き裂かれたのです。十字架上のイェスの肉体が引き裂かれた時に、神殿の幕が地上に落ちたのです。そして、神への道がひらかれたのです。

第二に、偉大な大祭司 イェスによって、心がきよめられ、良心の咎めもないとされています。大祭司イェスは、絶えず神と人との橋渡しをしてくださっています。神に至る道だけでなく、神の御前につれてくださるのです。神に近ずく道には一切の妨げるものは 永遠に取り去られたのです。 

第三に、イェスによって、完全に罪 けがれはきよめられました。罪は私たちを神から引き離し、神への道を閉ざすものです。人は、外面だけでなく、イェスの臨在と聖霊の働きによって、一切がきよめられ、人間の心の奥深くにひそむ、思い煩いをきよめて、まことのきよさにあずかり、清い者となることが出来ます。ですから、大胆に真心から神に近づこうではありませんか。祈る事、それが、神に近づくときです。あさ、夕にいのり、食事ごとにいのり、絶えず祈り心でいるときこそ、神に近づいているのです。祈ることこそ神との交わりの尊いひと時です。主の祝福にあづかるときです。



(YOSHIYUKI)

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